5月8日、文協創立会員であり(元評議員会会長を務められた原沢和夫氏がご夫人同伴で文協を訪問され、会長室で呉屋会長をはじめ、山下第1副会長、松尾第2副会長、中島事務局長に迎えられました。
原沢氏は90歳とは思えない矍鑠とした姿勢で、新会長に就任した呉屋会長を激励されました。
原沢和夫氏は「ブラジル日系社会において日本文化の継承と普及活動を促進するために役立ててほしい」と当協会に5万レアルの寄付を行いました。
原沢氏の長年にわたる日系社会の発展に寄与された業績は顕著なものであり、現在では文協創立会員の数少ない生存者の1人でもあり、評議員会長を務められ、またサンパウロ援護協会の会長を務められ、協会を成長させた中心人物でもあります。
1952年に兄である文夫氏に呼ばれ、ブラジルへと渡り、翌年1953年には農産物の仲買業をしていた兄と「原沢兄弟商会」を事業を立ち上げ展開させました。
原沢氏は手広く商業活動をするかたわら、文化・福祉活動においても力を注いでこられました。1955年に当時の新潟県知事だった北村一男氏より「移住したい若者を呼び寄せのための県人会を作ってほしい」との手紙が届き、これに対して1913年渡伯の先駆者であり、原沢氏の永住ビザ切り替えを助けた恩人の長谷川武氏とともに新潟県人会の前身である「越佐郷土会」を創設しました。
偶然にも高校時代の校長が、当時ブラジルに於ける東山農場支配人であり、ブラジル日本文化福祉協会を設立し初代会長を務められた、山本喜誉司氏と同級生であったため紹介状をしたためて下さいましたが、それが原沢氏と文協の運命的な繋がりへと発展して行きました。渡伯後、原沢兄弟が紹介状を持って山本氏を訪問した頃、ちょうどブラジルの日系社会ではサンパウロ市制400周年記念として日本館のサンパウロ市への寄贈の計画が始まっていた段階でした。山本氏は訪れた2人を快く歓迎し、この時から原沢氏と文協の接点がはじまり60年以上の絆が築かれました。
原沢氏は1971年から文協評議員を務め、文協8代目会長・山内淳時代には評議員会長に就任し、現在は終身評議員であり支援及び指導高等審議会の委員を務めています。
2015年は日本ブラジル外交樹立120周年また文協60周年記念を迎える節目となります。今日の日系社会の繁栄は、原沢和夫氏のように移民としてこの地へ渡って来られた方々の多大なるご努力とご苦労によって築かれた歴史があるからではないかと思います。