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訃報 大浦文雄氏

「福博村」と呼ばれているスザノ市南部の農業地域ヴィラ・イペランジャ地区の日系集団地において、福博村会会長など歴任した大浦文雄さんが7日、スザノ市内の病院でお亡くなりになられました。96歳でした。大浦氏は2週間ほど前に、庭でサソリもしくは毒蛇の被害に会い、毒が腎臓に回り入院中でした。 大浦氏は「憩いの園」や「こどものその」の理事会にも加わるなど 常に他者の為に生きる姿勢を貫いていた他、ブラジル日本移民の歴史を後世に伝える使命を持ち、ブラジル日本移民史料館創設にも積極的に尽力、サンパウロ人文科学研究所の理事会にも参加していました。2011年には『子供移民・大浦文雄』(大浦玄編著、大浦文雄監修)を出版しています。 ご冥福をお祈りいたします。

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文協の対応時間 9月1日より

文協事務局とブラジル日本移民史料館事務所:月曜日~金曜日、10時から15時半まで 図書館:火曜日~土曜日、10時から15時半まで 日本館およびブラジル日本移民史料館の再開は未定 注意事項: ◼マスク装着無しでは入館できません。 ◼文協ビル入り口のアルコールジェルディスペンサーで手を消毒してください。 ◼来館者への対応は一人ずつ行う。順番待ち用の椅子は、対人距離の2mを保った間隔で配置しております。 ◼職員と来館者の最低限対人距離である2mを保つため、サイン・バリアをカウンターの周囲設置しております。

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サンタクルス病院 ドライブスルー式 PCR 検査のご案内

海外渡航の際にPCR 陰性証明が必要な国もありますので、ご希望の方には英文での証明書も発行しております。 検査時間:原則月曜日から土曜日の午前 9:00-12:00 となります。その他の時間帯を希望される方は予約フォームにご記入頂くか、お電話にてご相談ください。 検査場所:サンタクルス病院 / ドライブスルー(屋外) / 住所:Rua Santa Cruz, 398 – Vila Mariana – CEP 04122-000 – São Paulo / Drive Thru 料金:診察料 150レアル、検査料 300レアル 、計 450レアル (※カードまたは現金でお願いいたします。 ※現金の場合は、おつりがないようお願いたします。) 診察と検査の所要時間:約 30分 検査結果までの所要日数:3営業日(※検査結果は、メールにて送付いたします。※ご希望の方には、検査結果の説明をいたします。) ご注意   ◽️咳や発熱が続く、強い倦怠感、味覚異常・嗅覚異常など現在新型コロナウイルスを疑う症状のあ る方は対象ではありません。当院の外来診療科をご受診ください。ご予約は、(11) 97572-4602 (24時間日本語対応)までご連絡ください。 ◽️本 PCR 検査は、保険外診療で自費での診療となります。 ◽️企業・団体でまとまってのPCR 検査を実施したい場合は、agendamento@hospitalsantacruz.comまでご連絡ください。 お申込みはhttps://www.hospitalsantacruz.com.br/teste-pcr/または、当院緊急コールセンター(11-97572-4602 /24 時間日本語対応)までご連絡ください。

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第4回 高齢者介護年次大会

8月28日(金)、宮坂国人財団およびサンタクルス病院後援のもと、文協の社会福祉委員会プロジェクト「介護者のケア」グループが「第4回 高齢者介護年次大会」を、初めてオンライン形式で開催します。 現状に一致する、今回のテーマは「パンデミックと高齢者の介護者の役割」になります。 講演者は全員プロの介護師です: ️ソニア・マラ・ダ・シルバ ️ジョルジェ・ロベルト・ダ・シルバ ️マリア・ファーチマ・オリベイラ 日時:8月28日、14時から16時まで リンク:www.youtube.com/bunkyodigital

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<訃報> 画商・実松寛さん逝去 新型コロナ後遺症が悪化

ブラジルを代表する洋画家の一人、間部学の作品を多く扱った画商として知られる実松寛(ゆたか)さんが、23日にサンパウロ市のサンカミーロ病院で新型コロナの後遺症によって亡くなった。享年91。  実松さんは二世で、聖市リベルダーデ区のアルバレス・ペンテアド商業大学を卒業。エコノミストとして活動し、1972年には日本国外務省の研修生として訪日した。   ピラチニンガ文化体育協会会長、日伯文化連盟の副会長や評議員、ブラジル日本文化福祉協会評議員を務めた。画廊「Escritório de Arte」の経営を行い、間部学の信頼を受けて、その作品を多数扱ったことで知られる。  関係者によると、1カ月前に新型コロナウイルスが原因で入院。治療の結果、コロナウイルス自体は完治したが、血管に炎症を起こす同ウイルスの特性から脳に後遺症が残り、その治療が困難となって亡くなった。  葬儀は家族のみで行われた。ただし「実松さんお悔やみの会」を29日10時からサンパウロ市内の教会Santuario Nossa Senhora do Rosario de Fatima(Av.Dr.Arnaldo,1831,sumare)で行う予定。 出典:https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/200826-74colonia.html

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国際交流基金=新事業「城の音楽」開始=オンライン和楽コンサート

国際交流基金サンパウロ文化センター(洲崎勝所長)は音楽を通じ、日本文化理解と交流を深めることを目的とした新事業「Música no Castelo」(城の音楽)を8月15日(土)から始動した。  和楽器や邦楽曲に焦点を当て、ブラジルや日本で活躍するミュージシャン達によるソロコンサートを全10回ウェブ上で開催する。8月15日から12月20日にかけて毎月15日、20日に開催予定。視聴は無料。  コロナ禍のため演奏者達はそれぞれ自宅から演奏を行う。外の見えない敵から身を守る様を「要塞」に見立て、住居や政治の場のほか要塞としても機能していた「城」をシンボルとしてコンサー ト名につけられた。  「人々に変化している世界への平和と希望のメッセージを届け、この嵐が過ぎれば絶対に良くなると願いを込めています」――尺八奏者として出演もする主催のシェン・リベイロ氏はそう語る。  リベイロ氏は演奏だけでなく視聴者が音楽や和楽器への理解を深めるためにコンテンツキュレーターとしてポルトガル語で解説・紹介を行うという。  ブラジル在住の演奏者はシェン・リベイロ(尺八)、北原民江(琴・三味線)、ガブリエル・レヴィ(アコーディオン)、アンドレ・メマーリ(ピアノ)、カミロ・カラーラ(アコースティックギター)  日本在住の演奏者は、徳丸十盟(尺八)、西陽子(琴)、はなわちえ(三味線)、 櫻井亜木子(琵琶)、Kaoly Gocoo Asano(太鼓) ▼ユーチューブチャンネル(https://www.youtube.com/c/fundacaojapaoemsaopaulo) ▼詳細情報などは(https://fjsp.org.br/agenda/musica-no-castelo/)※ポ語のみ 出典:https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/200820-73colonia.html

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8月24日より卓球レッスン再開

新型コロナウイルス感染症対策に配慮し、文協の卓球レッスンは8月24日(月)より再開いたします。 なお、コロナ重症化リスクが高い方たちの参加はご遠慮させて頂いております。 時間割は以下の通りです: 月水   グループ1 10時から11時 グループ2 11時30から12時30 グループ3 14時から15時 火木   グループ1 11時30から12時30 グループ2 13時30から14時30 土(フリー練習)   グループ1 9時30から10時30 グループ2 11時から12時 グループ3 13時から15時 注意事項: 試合している時以外は、マスクを必ず着用してください 他人の物に触れた時は、石鹸やアルコールで手を清潔にしてください 先生は生徒のラケットに触らず、2メートルの距離を守ります 生徒は水飲み場から直接水を飲まず、自分のコップや水筒をご持参ください 練習が直ぐできるような服装でお越しください 練習場には生徒以外の方は立ち入り禁止です 自分のラケットとボールに名前を書き、サーブの時は必ず自分のボールを使ってください ボールが落ちたら、自分の物だけを拾ってください ダブルスの練習および試合は行いません 事前に先生への出席確認が必要です 練習場の入り口と出口は別々になります 卓球テーブルの近くにはハンドジェルが準備してあります テーブルとテーブルの間隔は2,5から3メートルです 到着時、体温測定が行われます お問い合わせはシジ・フルヤマ先生へご連絡下さい: cidaofuruyama@gmail.com

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在サンパウロ桑名良輔総領事オンライン歓迎会大成功

約1200名の視聴者を集めたオンライン新総領事歓迎会のチャットでは、桑名氏への祝福のメッセージが多数並び、大いに盛り上がりました。 先ずは、主催者側として日系主要5団体の代表者が挨拶し、つづいて来賓者としてサンパウロ市長代表としてルイス・アルバロ・サンパウロ市外務局長が挨拶をしました。日伯議員連盟代表としてパラナ州の西森ルイス連邦下院議員のビデオメッセージの映像が公開されました。 8月7日に着任された桑名総領事は初めて日系社会に発言し、日本語とポルトガル語で、「大都市サンパウロで活躍できることを光栄に感じると」述べました。 その後、桑名総領事は汎ソロカバナ日伯連合文化協会(纐纈俊夫会長)、神奈川県人会(行徳ミルトン会長)、援協グループとブラジル日本商工会議所(安田篤副会頭)の質問に答えました。 乾杯の音頭はジェトロ・サンパウロの大久保敦所長がとり、歌手のジョー平田が長渕剛の「乾杯」を熱唱してから行われました。 下記リンクで歓迎会をご視聴ください: https://www.youtube.com/bunkyodigital

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訃報 本山省三氏 

サンパウロ州立総合大学(USP)教授で、科学史センター理事、ブラジル日本移民史料館館長、サンパウロ人文科学研究所理事長を務めた本山省三氏(二世)が、1月26日(火)午後8時50分頃、自宅でお亡くなりになられました。81歳でした。1月5日に81歳の誕生日を迎えたばかりでした。 夕方になっても、昼寝から起きてこないのを心配し、家族が部屋に様子を見に行ったところ、意識の無い状態で発見されました。救急車で緊急搬送されましたが病院で死亡が確認されました。死因は不明です。 葬儀は翌日27日に執り行われ、ゲッセマニ・アニャングエラ墓地に埋葬されました。 本山・ミズノ・ジュリア夫人との間に2人のご子息(ショウイチさん、シンジさん)そして、3人のお孫さんに恵まれました。 飽くなき探究心 本山氏はサンパウロ大学(USP)にて物理学を専攻(1967年卒業)、1971年には同大学の科学博士号を取得しています。日本の早稲田大学理工学研究室博士研究員(招待研究員)でもありました。1975年には東京大学の宇宙線研究室に在籍しています。1976年にはサンパウロに戻りUSPで無料指導を行っていました。また本山氏は、USPの哲学・文学・人間科学部の歴史学部の教授(1999/2009)として教鞭をとり、ユニット間科学史センターの所長も努めました。 1966年からサンパウロ人文科学研究所(人文研)の理事を務め、2004年から2019年まで会長の職を担いました。それ以外にも ブラジルの日本移民史料館の館長(1991/1997および2008/2009)およびアカデミアパウリスタデヒストリアの議長15番のメンバーでもありました。 執筆活動 今までに、科学技術史をテーマにした32冊以上の本を執筆し、2011年は、第二次世界大戦の到来までの日本の移民の歴史について執筆した「日の出の象徴の下で(Sob o Signo do Sol Levante)」を出版しました。 その後、2016年にジャーナリストのホルヘ・オクバロとともに、1941年から2008年までの日本の移民の歴史を取り上げた「戦中戦後編『対立から統合へ』(Do Conflito à Integração – Uma História da Imigração Japonesa no Brasil)」も出版しています。これらは、ポルトガル語版のブラジル日本移民『百年史』全5巻中3巻目です。 現在は、USPおよびブラジル日本移民史料館で主任研究員を務め、日本移民文化研究センターに参加し、史料館の9階に設置される展示会のキュレーターコーディネーターを務めていました。 本山省三氏のブラジル日系社会に対する数々の貢献に感謝申し上げ、心からご冥福をお祈り致します。

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追悼 石井賢治氏

去る1月17日、澄んだ青空が広がった日曜日の朝8時58分、石井賢治氏は2か月間の癌との闘いに終止符を打ち、イスラエリタ・アウベルト・アインシュタイン病院(SP)にて息を引き取られました。88歳でした。翌日、家族葬によってゲツマニ墓地(SP)に埋葬されました。 奥様のミネコさんとの間に、息子のロベルトさん、フェルナンドさん、娘のイザベルさんを授かり、7人の孫にも恵まれました。 石井賢治氏とブラジルをつないだ「陸上」 日本の長野県に農家の末息子として生を受けた石井賢治氏は、慶應義塾大学時代、エリート陸上競技チーム(5千メートルと1万メートルの選手)に所属し、日本の全国陸上競技大会で2度も優勝するなど、将来を期待された選手でした。 アスリート達がフィンランドのヘルシンキで開催される1952年のオリンピックに向けての準備に専念するなか、陸上では、様々な国から名だたる選手が参加することで世界的に有名となった「サンシルベストル国際レース」に、1951年の大晦日、多くの国から選手が送り込まれました。 ブラジルの反対側である日本からは、オリンピック出場候補選手として慶應義塾大学が負担した費用のもと、石井賢治氏と高橋進氏が送り込まれました。 石井氏は既に多くのレースに参加し、ボストンマラソンを含む国際的なレースでのメダルを獲得していましたが、日本人として初参加となったこのレースにて、8位入賞という快挙を成し遂げました。 そしてこのレースに参加するために来伯したことがきっかけとなり、当時日本より豊かで無限の可能性に満ちたブラジルにすっかり魅了され移住を決意、大学を卒業するとすぐ移民船「さんとす丸」に乗りブラジルへと移住しました。 ブラジルでの第2の人生の始まり 石井氏はまず、サンパウロ内部の穀物販売店で働きました。続けてマウアー農業共同組合、リオデジャネイロのヤマガタエンジン建設会社で働く中、南米銀行の創設者でありラテンアメリカにおける日本人移民の中で大きな力を持っていた宮坂国人氏に出会いました。 その宮坂国人氏に勧められ宝石販売業に従事することとなり、1967年に独立し「ジョイアロレーナ石井宝石店」が誕生しました。 ちなみにこの宝石店は、石井氏の3人の子供が後継者になることに興味を示さなかったため、2017年に閉店、50年という歴史に幕を閉じました。 石井氏とブラジル日系社会の関わり 石井氏が文協に入会したのは1959年10月2日のことでした。1987年からは審議委員会の委員を務めるなど、常に協力を惜しみませんでした。それ以外にも、在伯長野県人会およびと慶應義塾大学三田会の会長も務めました。 また「ブラジル法の会」の会員であり、慶應義塾大学ロースクールとの関係に大きく貢献しました。 そして、1960年代半ば以降、ブラジル日系社会において発行される全ての出版物には、「JóiasLorena」のバイリンガル広告が掲載されていたと言っても過言ではありません。そしてこれは石井氏自身の宝石店のマーケティング戦略というよりも、ブラジル日系社会の活動に対する支援が動機となっていることは誰の目から見ても明らかでした。 石井氏と小渕恵三元首相との友情 現在、お二人の友情物語はブラジル日系社会において有名な話ですが、それが公になったのは、1997年のことでした。当時外務大臣だった小渕氏が、東京で開催された石井賢治氏の長男ロベルト氏の結婚式に出席されたのです。ロベルト氏は「父との約束を小渕氏が守ってくださったのです。」と話しました。同じく結婚式に出席していた石井氏の長年の友人であるサンフェルナンドゴルフクラブ創設者であるフリオ・クルス・リマ氏は「二人の間に築かれた友情の物語を交えた祝辞は、そこにいた全員の胸を打った。」と話しました。 そんなお二人の出会いは、1960年代のはじめにさかのぼります。 かばんひとつでぶらりとブラジルへやってきた、当時早稲田大学院生、小渕恵三氏。政治家を志していた若い小渕氏は、世界情勢を実際に肌で感じる必要があると、熱い想いを胸に秘めつつアメリカなど36カ国を訪れ、ブラジルにも足を伸ばしました。ここでは早稲田大学の先輩方に宿を借りながら、約2ヵ月間に亘り日本移住地を見て回りました。そこで思いがけず触れた多くの日本人移民の暖かさに、すっかり心を奪われたとのことです。その「暖かな日本人移民」の一人が石井氏でした。当時、慶應義塾大学の同窓会「三田会」の会長であった石井氏は、日本から来伯するアスリートや若者達の宿や食事などの面倒を快くみることで有名でした。 そんなある日、突然、小渕青年のもとに日本の母親から「内閣総辞職。すぐに帰って、立候補せよ。」という電報が届きました。 帰国前に食事を共にした石井氏に小渕氏は「偉大な政治家になってまたここに必ず訪れる!」と宣言し、ブラジルを後にしたそうです。 帰国後、小渕氏は父親の地盤を引き継ぎ、26歳で衆議院に当選し4年後に議員として来伯。見事に石井氏との約束を果たしました。 またそれだけでなく1998年のブラジル日本移民90年際には、今度は外務大臣として来伯し記念式典に出席されました。 後に、小渕恵三氏の娘である優子議員は当時の様子を「強行なスケジュールで外務省の誰もが反対したんですが、俺がいくと言って出たんです。」と、話しています。 石井氏とスポーツ また息子のロベルト氏は、「父親は常に、バレーボール、ゴルフ、陸上競技など、さまざまな分野のスポーツマンに支援し続けていた。」と述べています。 「父は故松平康隆氏※と同級生で、松平氏を通して日本とブラジルの交流を強化しようと一生懸命でした。『エスコラ・ブラジレイラ』という学校を設立し、その結果わが国でバレーボールのチャンピオンが生まれました。」と付け加えました。 ※松平康隆氏(22/01/1930~31/12/2011)とは、日本のバレーボール全日本選手で、後にバレーボール全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉顧問、アジアバレーボール連盟終身名誉会長、国際バレーボール連盟名誉副会長、日本オリンピック委員会名誉委員を歴任した人物 シンプルで正しい人 「石井さんは、サンフェルナンドゴルフクラブのメンバーのために常に率先して協力してくださいました」と同クラブ創立者のフリオ・クルス・リマは、いつも意見を交換していた石井氏について、感謝の言葉を述べました。 「何十年もの間、石井氏は青年たちの宿泊、食事の世話はもちろん、良きアドバイザーとして存在していました。 私たちの倶楽部の青年のためのボール、ティー、キャディが不足することは決してありませんでした。そして石井氏は、誰も知らないうちにそれをするのです。」と話しました。 「これは、常に他人を助けることに関心を持っていた、素朴で正しい人である石井さんのありのままの姿です。 彼は植民地で卓越した尊敬と称賛を勝ち取り、その後数十年でここに到着したすべての移民は、自分達が事業を始める前や、または自分達の家族をブラジルに連れてくる時など、人生の一番大事な事柄は、石井さんに相談しに行きました。」と述べました。 このように、石井氏の人生は常に他者を思いやる大変面倒見のよいスポーツマンだったといえます。 日伯交流への多大なる貢献およびブラジル日系人社会に対する深い愛情に心より感謝するとともに、石井賢治氏のご冥福をお祈り致します。

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訃報 岡野修平氏

ブラジル講道館柔道有段者会名誉会長の岡野修平氏が1月16日の午前5時頃、ご自宅で逝去されました。82歳でした。同日、家族と近親者により葬儀が執り行われ、レデントル墓地(SP)に埋葬されました。 岡野氏は昨年末から2週間ほど呼吸器疾患により入院、年明けからは自宅にて療養中でした。 岡野氏と柔道 1938年1月20日、北海道に生を受けた岡野氏は、10歳で柔道を始め、以来柔道一筋の人生だったといえます。 東京の中央大学法学部に在籍中に、同大学柔道部の副主将を務め、卒業後の1964年には世界の強豪が揃った国際親善大会で準優勝を果たしました。 ブラジル柔道への貢献 岡野氏が、サドキン電球工業の創業者で後にニッポン・カントリークラブの初代会長となる山本勝造氏に呼び寄せられブラジルへ来たのは1966年、当時28歳の時でした。 サドキン電球工業で働きながら、翌年にはブラジル柔道の代表チームの監督に任命されました。 72年のミュンヘンオリンピック大会では石井千秋選手の初のメダル(銅)獲得に導くなど、ブラジル柔道史に名監督としての名前を残しました。 柔道を通して日伯交流にも貢献 ブラジル講道館柔道有段者会の役員や会長を歴任するなど指導者として活躍するだけでなく、柔道を通して日伯の交流にも尽力されました。その大きな貢献が日本政府に認められ、令和元年(2019年)春の叙勲において旭日単光章を受勲しました。 なお、2009年には、通常は80歳以上が対象となる国内最高位「柔道9段」に当時72歳で昇段しています。岡野氏がブラジル柔道会に対して成した貢献があまりにも偉大であるというのがその理由です。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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文協創立会員インタビュー 瀬川正文氏 水野昌之氏

瀬川正文氏(99歳) 「コロニアの代表機関として1955年、文協が設立されました。」瀬川正文氏は、2020年6月に発刊した「文協ニュースコロニア 第143号」の企画「文協創立会員インタビュー」の中でそう話しています。 当時、サンパウロ在住で、南米銀行に勤務していた瀬川氏は「文協の設立は、誠に時機にあった大変良い企画であると考え、創立会員募集に応じました。」と話しました。 そして「1993年には正監査役、1995年には正評議員を務めました。」と付け加えました。 非常に明敏で勤勉な人 瀬川氏は、同じ創立会員であり青春時代を共にバストス市で過ごした水野昌之氏の言葉を借りれば「非常に知的な人」として知られています。 1970年代、当時勤めていた南米銀行において、管理職に就くための資質を持つ優秀な従業員である「ゴールデンボーイ」の一人として認識されていた瀬川氏は、実際にその期待通り、最終的に南米投資銀行の取締役まで上り詰めました。 現在、文協の副会長で当時南米銀行の法務部門を担当していた西尾ロベルト義弘氏が「瀬川氏は銀行内で非常に明敏で博識な方だと称賛されていました。彼のポルトガル語も驚くほど流暢で、若者との交流にも長けていました。」と話すのを聞くと、博識を持ちつつ、人の心を掴む術も体得されていた方だというが窺い知れます。 まずはニューヨークへ そんな瀬川氏が18歳の時、故郷長野県を後にし、まず向かったのがアメリカニューヨークでした。そこで日本の銀行の支店に勤務していましたが、1940年に日本軍による真珠湾攻撃のうわさを耳にし、1941年に21歳でブラジルへ飛伯したそうです。 ブラジルでの日々 ブラジルではサンパウロ州バストス市のブラジル拓殖組合(ブラ拓)に就職しました。文協創設時の1955年には、同じブラ拓グループの南米銀行職員となり、サンパウロ市営市場内にある支店勤務を経て、マネージャーから南米投資銀行の取締役に昇格するなど、1980年代後半に引退するまで銀行員としての華麗なるキャリアを重ねました。 根っからの数字好き 瀬川氏は根っからの数字好きで、99歳となった現在も、毎日、新聞の株価の動向をチェックすることに余念がないそうです。彼はご自身を「保守的な投資家」と考えており、毎日欠かさず読んでいるESTADÃO新聞を通じて、そして時にはインターネットを駆使しサイトのVALOR ECONÔMICOを通して株価の値動きに対する情報をチェックしているとのこと。 瀬川氏の息子であるサンパウロ大学建築都市計画学部(FAU)瀬川ウーゴ教授は、「父は92歳まで、6〜7年前まで、車を運転していました。」と話しました。そして「文協が毎年開催している新年会に行くときも、自分で運転して行っていたんですよ。そして父は、知り合いがいなくなった時、ついに運転するのをやめました。」と付け加えました。 また、瀬川氏は最近、南米銀行の元従業員らで組織されている「なぎさ会」の年次総会に招待されたそうです。 ウーゴ氏は「父と、そして同行した息子の自分にまで大変温かい歓迎をして頂き、父も私も、大変嬉しかった。」と話し「その会には南米銀行の元従業員だけでなく、他の日系企業で働いていた方々も来ていて、父は古くからの友人たちとの再会を、心から楽しんでいるようでした。」と思い返しました。 続けて ウーゴ氏は 「父は外国貿易や外国為替部門で働くその道の専門家だったため、多くの人が父の見解を聞きたがり『まるで先生と生徒のようだった。瀬川さんのお陰で私たちはやってこれたし、瀬川さんから本当に多くの事を学びました。』と父に感謝を伝える方々が沢山いらっしゃいました。」と、改めて父親の偉大さを垣間見た息子として、感慨深げに語りました。 ちなみに、瀬川氏は文協の最も重要な行事の一つである99歳の方を祝賀する「白寿者表彰」2020年度の対象者27名の内のお一人でもありました! 水野昌之氏(94歳) 水野昌之氏(94歳/愛知県名古屋市出身)がブラジルにやってきたのは、8歳の時でした。家族はノロエステ線沿いのバルパライゾ地区の、綿花栽培の仕事に就きました。家族が少なかったため、8歳の少年でも立派な働き手の一人です。鋤の柄を握る幼い手には常にまめが絶えませんでした。 「だから小学校には最初の一年間、通っただけ。」と水野氏は話します。 しかし後に邦字新聞のパウリスタ新聞社が行った記者募集において、応募総数37名の中から見事、水野氏ともう一人が採用されたことをみると、相当な努力をして日本語の勉強をしたに違いありません。 それに対し水野氏は「第2次世界大戦というのは日本が勝つと思って、日本語ばっかり勉強してたからね。日本に帰ろうと思ってね。早稲田の中学校教本があって、それを全部写して。それで非常に、日本語に自信があった。」と胸を張りました。 しかし、日本の敗戦とともに日本へ帰国するという夢も破れ、人生の方向転換を余儀なくされた水野氏は、親元を離れ職を求めてサンパウロの大都市へと向かいました。 邦字新聞記者時代 ただ、ポルトガル語をよく理解できない水野氏にとって、サンパウロで職を得ることは想像以上に困難でした。 そんな中、創立間もないパウリスタ新聞社が日本人記者を募集している話を聞きつけ、運よく採用されたというわけです。ちなみにこのパウリスタ新聞社は1947年1月に創立され、日本が戦争で敗北したという立場を擁護することで知られていました。 水野氏は入社当時を振り返り「私はね、23歳でパウリスタ新聞社に入った時ね、編集に入ったんですけど、最初に入ったときに一番最初に『これしまっとけ』と渡されたのがピストルなんですよ。これ引き出しに、一番出しやすいとこに置いとけと。それは、まあ、敗戦、負け組みの新聞でしょう。いつ特攻隊が来るか分からないから護身用にね。一番最初に渡されたのがね、ペンよりも先にピストルだった。いやこれはおそろしいなと思ったね。」と話しました。 そして入社から約1年後には、新聞の三面記事である社会部記者になりました。 益々やる気もみなぎり、邦字新聞の未来を真剣に考えるようになった頃、内部で起こった紛争に嫌気がさし水野氏はパウリスタ新聞を退社、仲間とともに日伯毎日新聞社を設立しました。そしてここでも三面記事の社会部を担当しました。 「バストス二十五年史」の執筆 後に水野氏は、友人のブラジル拓殖組合のディレクターだったサキタハルイチ氏より引き抜かれ、後に日本移民史にとって非常に重要な歴史本となった「バストス二十五年史」という本を執筆、出版しました。 この出版物のために、水野氏はサンパウロ日本商工会議所の職員となり、定期的な出版の責任者になりました。 また商工会議所は水野氏を、1957年経済年鑑の発行のために日本に派遣し、日本企業によるブラジルへの投資を奨励しました。 アチバイア市へ ブラジルに帰国した際、他の人々に使われることに疲れた水野氏は、自分で事業を始める決心をし、アチバイア郊外に農場を購入ました。そこで5万羽の養鶏と2500頭の豚の飼育を始めました。 数年後、彼はこの事業を辞め、投資家へ転身。地域社会に奉仕することを目的に、アチバイア文協50周年記念誌の研究、執筆、編集に携わりました。 今までに、武本文学賞を6回受賞し、3つの異なるカテゴリー(散文、俳句、短歌)で2回優勝した唯一の人物である水野氏の、現在の最大の楽しみは、文学と読書だそうです。

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追悼 栗原猛氏

去る1月13日に開催した文協理事会において、昨年12月27日午後7時40分に78歳で逝去された栗原猛氏(東京都出身)を追悼する時間を設けました。 石川島ブラジル造船所(略称イシブラス) の出向社員として 栗原氏は明治大学を1965年に卒業後IHI(石川島播磨重工業)に就職、1985年にはリオ・デ・ジャネイロに現地政府当局とIHIの出資による日本・ブラジル合弁の造船・重工業会社「石川島ブラジル造船所(略称イシブラス)」へ出向、1994年にIHIがブラジルから撤退するまで現地で勤務しました。1998年からは、サンパウロのIHI事務所所長として働き、そこで定年を迎えました。その間、妻のヨウコさんとはサンパウロで結婚式を挙げています。ブラジルと日本の両国を常に往来する人生で、日伯交流にも尽力されました。栗原氏はブラジルに長く暮らしていたにもかかわらず、常に日本の上級幹部職者のような雰囲気を醸し出し続けていました。トレードマークでもある上品な白い頭髪と白いあごひげが、それを強調していたと言えます。また常に控えめな態度であるにもかかわらず、誰からも一目置かれる人物でした。 一人息子であった栗原氏は、100歳の母親の介護にも熱心でしたが、とうとう自分自身の体調を崩され4年ほど前から、熊本県にて治療を受けていました。 文協と栗原氏 理事会では、文協において栗原氏と最も多く行動を共にした中島事務局長より、文協での栗原氏の活動の様子が以下の通り語られました。 「栗原氏が文協の活動に加わったのは2004年のことで、当時のサンパウロ新聞社社長で、強力な文協会員だった水本ヘレナ氏が推薦、そして当時の松尾治副会長からの紹介がきっかけでした。推薦理由としては、栗原氏は文協の多岐におよぶ日本語での事務作業における強力な助っ人となってくれるだろうということでした。実際、日本語での文書作成や日本の関連機関との連絡、そして主に当時の文協会長であった上原幸啓氏の心情を日本語の挨拶文に翻訳する作業に携わり、期待以上の活躍をしてくれました。特に、2004年、日本国の小泉純一郎内閣総理大臣が来伯された際に、大変力になって下さいました。このように、日本からの要人の受け入れ時はもちろん、在伯の大使館や領事館、JICA、国際交流基金などとの連絡窓口としての役割も果たして下さいました。 また、上原会長の第二期目(2005-2006)に、会長より会長顧問に任命されました。 それ以外にも、日本政府による叙勲受章者祝賀式、新年祝賀会、天皇誕生日祝賀式典、ブラジル日本移民開拓先亡者追悼大法要などの式典にも携わりました。2005年の文協創立50周年記念における様々な企画と運営、そして文協図書委員会が主催する古本市をはじめとする、様々な委員会への協力、また本人の趣味もかねて、にっけい文芸委員会や音楽委員会などは特に積極的に協力してくださいました。 上原会長(2007-2008)の第3期目に、会長顧問を務めるだけでなく、ブラジル日本移民史料館運営委員長にも就任しました。2008年に、ブラジル日本移民百周年記念式典にご臨席されるためご来伯された徳仁皇太子殿下(当時)が同館をご視察された際には、館内をご案内するという大役もこなされました。 ブラジル移民百周年を記念するために組織された「ブラジル移民百周年記念協会」の執行委員長に松尾治氏が就任して以来、栗原氏は松尾氏の良きアドバイザーとして存在感を示しました。同時に、5巻におよぶ「ブラジル日本移民百年史」を手がけた移民百年史日本語版編纂刊行委員会にも多大な協力をして下さいました。」と語りました。  百周年時に、栗原氏と共に史料館の運営に携わった現ブラジル日本移民史料館運営委員会の山下リジア委員長は「徳仁皇太子殿下(当時)や小泉純一郎内閣総理大臣などの重要な方々のご案内をはじめ、ブラジルを拠点とする日本企業の幹部との関係を築き、重要な財源を史料館に齎してくださいました。」とその活躍ぶりを強調しました。そして「百周年記念事業の一環として栗原氏と共に立ち上げた『足跡プロジェクト』が大変印象に残っております。12年経った現在もこのプロジェクトは多くの方々に利用されており、同館の重要な活動のうちのひとつです。」と話しました。 合わせて、「このように栗原氏が2004年以来、なぜここまで献身的に文協の活動に携わったのかと言えば『コロニー=ブラジル日系人社会』の一員として初めて歓迎された文協事務局との連携を継続すべきだと確信していたからです」と中島事務局長は付け加えました。 また、栗原猛氏は、2014から2016年まで、サンパウロ人文科学研究所(人文研)の理事も勤めていました。 2013年には、ブラジルのアマゾン、リオデジャネイロ、サンパウロ、およびブラジル以外の国々において、自身が若い頃の回想録を、万葉集から選んだ一言を使用し「あらたしき 日伯断想」という題名の書籍を発行しています。栗原が「自分はブラジルのすべての州を知っている」とよく自慢していたことが、つい昨日のことのように思い出されます。 文協の活動を深く理解し、献身的にご協力下さった栗原氏に心より感謝の意を表し、ご冥福をお祈り致します。

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カーニバル休暇について

文協カレンダー 誠に勝手ながらカーニバル休暇の前日である2月15日(月)は閉館とさせて頂きます。17日(水)は通常通り開館いたします。 ご不便をおかけして申し訳ございませんが宜しくお願いいたします。 お問い合わせ:文協事務局(11)3208-1755

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週末閉館撤回のお知らせ ブラジル日本移民史料館 / 文協図書館 

サンパウロ州政府は同州経済活動再開計画(Plano SP)において、週末にフェーズ1/赤(最大限の警戒)を適用するとしていた措置について撤廃することを発表しました。つきまして、新型コロナウイルス感染症予防に細心の注意を払いつつ、ブラジル日本移民史料館および文協図書館は週末も通常通り運営いたします。 みなさまのお越しを心よりお待ちしております。 • 文協事務局 : 月~金 9時 ~17時30分       ※各種講座は引き続き未再開  • 図書館 : 火~土 9時 ~17時30分 • 日本館 : 改装工事につき閉館中 • 移民史料館:事務局 / 移民図書館(要予約):月~金 9時 ~17時30分       展示室:火~日 13時30分 ~17時30分      注: 下記サイトから要事前予約   https://www.bunkyo.org.br/br/agendamento-online/      入館料:       20レアル – 大人       10レアル – 子供(5歳から11歳まで)             学生(要学生証) / 60歳以上 問い合わせ:文協事務局 (11)3208-1755

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