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2020年度白寿者表彰 鈴木昌子さんなど合計27名

文協の恒例行事の一つである 99歳の方をお祝いする「白寿者表彰」 に対し 各団体や新聞紙上で呼びかけたところ、本年は27名の方のお名前が寄せられました。 しかし、新型コロナウイルスパンデミックのため、6月28日に予定していた式典を開催することができず、表彰状および宮坂国人財団からのご祝儀は、郵送にてお送りしました。それを受け取られた白寿の方々の写真や経歴などが届きましたので以下ご紹介します。 太田 平沢 かず子さん 1920年6月11日、静岡県に生まれる。より良い暮らしを求めて、両親、兄弟共に乗船した移民船サントス丸がサントス港に着岸したのは、1928年1月13日の午前8時半のことでした。 写真はリンス市の自宅で100歳の誕生日を祝った様子。 結婚した太田ヨシロウ氏との間に7人の子供、18人の孫、10人のひ孫に恵まれました。2020年11月19日、100歳の生涯を全うし逝去されました。心よりご冥福をお祈り致します。 ヒノ トウジロウ さん 1921年9月14日島根県沖の島に生まれる。 お金を稼いで帰国することを目的に、1934年9月20日当時13歳の時に、ハルシ、ナミ兄夫婦、そして弟のキサブロー氏と一緒にアラビア丸で神戸港を出港しました。サントス港に到着後は、サンパウロ州のカフェランディア地区のカフェソポリス、後にパラナ州のアラポンガス地方のコーヒー農園で開拓者として働きました。努力と多くの犠牲を払って、彼らは数年で日本移民家族の隣に小さな農場を購入することができました。 植民地の日本移民家族らが集まって、故郷の慣習に従って日本の文化である歌や踊り、運動会、相撲、餅つき、新年会などを常に開催していました。 1949年、トウジロウ氏はパラナ州コロラド市の義父となるナガオカ農場でミヨコ氏と結婚しました。 そこで彼は、森林の開墾、家の建設、井戸の掘削に取り組みました。 その後、コーヒー、米、豆の植え付けに取り組み、自分の土地を購入することができました。彼はコロラド市に引っ越し、義理の兄弟であるナガオカキユイチロウ氏と共同で精米所を購入しました。 また、コーヒーの苗木を扱う仕事を始めて、地域の農家に販売もしました。その後、ロンドリーナ市に引っ越す前に、生涯忘れることのない日本旅行をしました。ブラジルに到着してから38年という月日が流れるなか、一度も会っていなかった母親や兄弟たちを訪ねたのです。 1972年、彼は子供たちに質の高い教育を受けさせることを願いロンドリーナ市に引っ越しました。 彼は商売で生計を立て、それによって彼のすべての子供たちが高等教育を受けることが可能になり、彼の夢は実現しました。 トウジロウ氏は常に日系社会と繋がりを持っており、カラオケ、運動会、高齢者向けの活動などの文化イベントに参加しているほか、ロンドリーナ文化体育協会(ACEL)の顧問兼財務担当などを歴任しました。また数年間、北パラナ州島根県人会の代表も勤めました。1988年に引退後、民謡、歌謡、演歌など数種類の音楽を歌い始め、大会ではいくつかのトロフィーを授賞しました。2016年に妻が亡くなった後、彼はパラナ州ロンドリーナで娘と孫娘と暮らしています。 今年の9月14日に99歳になりましたが、まだまだお元気だそうです! 森西 茂行 さん 1921年6月6日、徳島県名西郡神山町に生まれる。当時13歳のときにブラジルに渡りました。 2020年5月24日に99歳の生涯を全うし逝去されました。 8月9日の「父の日」に家族で住んでいたイタチーバに集まってお供養をした際の写真を送ってくださいました。 生前は教育勅語の普及に大変熱心に取り組んでいたそうす。ご冥福をお祈り致します。 ドイ マスエ さん 1920年9月6日、愛知県名古屋市に生まれる。当時7歳のときにブラジルに渡りました。 2020年6月3日に100歳の生涯を全うし逝去されました。 写真は息子さん夫婦や近くに住むお孫さんご夫婦などが集まったときに取った写真を送ってくださいました。ご冥福をお祈り致します。 安永 忠邦 さん 1921年3月25日にサンパウロ州プロミッソン市に生まれる。1914年に熊本から飛伯した父良耕・母セキ夫妻の間に生まれた11人兄弟の3番目。 安永家は、1918年、皇国殖民会社の現地代理人であった上塚周平氏が、プロミッソン駅に近いイタコロミーに土地を購入し、上塚第一植民地を創設した時に共に行動しました。それ以来ずっと忠邦氏はプロミッソンに根を下ろし、日本人移民がこの国に広がるのと同じように、8人の子供、29人の孫、13人のひ孫を持ち安永家を繁栄させました。そればかりでなく、現在父良耕・母セキ夫妻の子孫である「安永家」を合計すると、現在ブラジルのさまざまな場所に、合計450人以上となりました!そしてそれらの殆どが、地元のブラジル日系社会の活動に関与しています。忠邦氏も1978年から1994年まで、プロミッソンのCooperativa Agrícola Sul-Brasilの社長を務めながら、スポーツやコミュニティ活動にしっかりと協力していました。特に1945年から1991年までボランティアで日本語の教師をしていました。これは日本移民の父と称される上塚周平氏の哲学である地域活動の重要性を次世代へ継承という使命感から来る行動でした。 安倍晋三前内閣総理大臣から100歳を祝賀する銀盃が届いたその2日後の2020年10月23日、100歳の生涯を全うし逝去されました。心よりご冥福をお祈り致します。 山西 伊藤 玉枝 さん 

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JICAより大型スキャナーを借用-ブラジル日本移民史料館

邦字紙デジタル化等推進 のため 去る2020年10月28日、 サンパウロ市の文協ビル内でにて、JICAブラジル事務所とブラジル日本移民史料館との間で、ドイツ製図面製本スキャナーOS12000の「貸与式」が行われました。 これに JICAブラジル事務所からは佐藤洋史所長が、文協からは石川レナト文協会長、 山下リジア玲子移民史料館運営委員長 、西尾ロベルト義弘同副委員長が出席しました。 佐藤所長は「 JICA は以前から日系移民史への連携支援を行っており、史料の収集や保存、展示にも協力してきました。今回、貸与したこのスキャナーを使ってブラジル日本人移民の功績を後世に遺していただきたい」と、貸与の理由を語りました。 急がれる史料のデジタル化 同史料館には、1916年にブラジル初の邦字紙「週刊・南米」から、現在にいたるまでの莫大な量の邦字新聞や雑誌、刊行物が収蔵されています。 史料の中でも印刷物は特に劣化が激しく、現物に触れなくても内容が閲覧できるようにデジタル化することが喫緊の課題となっていました。 しかしながら、邦字紙や大判の雑誌などはサイズが大きく、市販のスキャナーではデジタル化が不可能でした。 それが、今回の高価な大型高性能機材で、ようやく可能となりました。 同館はJICA よりこの機材を5年間借用し、史料のデジタル化を早急に進めていく予定です。 石川会長は「このスキャナーを大いに活用して、日本人移民の歴史をしっかりと後世に残そうと思います。本当にありがとうございます」と深謝しました。 山下運営委員長も「このような高性能スキャナーを貸していただき本当にありがたいです。今まで以上に史料の保存が促進されます。」とお礼を述べました。 写真/文 ニッケイ新聞より

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文協 オンライン日本食 料理教室

天ぷら丼の作り方 白石テルマシェフによる天ぷら丼のオンライン料理教室を開催します!どうぞお楽しみに! 【日 時】2020年12月10日(木)20時~【リンク】 https://www.facebook.com/bunkyodigital       https://www.youtube.com/bunkyodigital       https://www.instagram.com/bunkyodigital ※ポルトガル語のみ  白石テルマシェフ 日本食レストラン『藍染』のオーナーシェフ。 サンパウロ市の高級住宅街であるジャルジン・パウリスタにレストランを構え、日本人の駐在員などからも本格的な日本食が食べられるとして人気があります。現在は、日本文化広報施設ジャパンハウス・サンパウロ館内2階にも同レストランを展開中。 白石氏は2019年に、日本政府から日本食普及の親善大使に任命されました。女性が任命されたことは世界でも数少なく、ブラジル人としては初めてです。また、在聖日本国総領事館での宴会やレセプションを担当するシェフでもあります。 白石氏は美食イベントの常連として日本の料理と文化の普及活動に尽力するだけでなく、コロナ禍においては先頭に立ってサンパウロ市郊外の貧困層集住地区に弁当を配るなど、慈善活動にも積極的に携わっています。 レストラン『藍染』  ジャルジン・パウリスタ 店           ジャパンハウス店  オンライン日本食料理教室 お問い合わせ:文協事務局(11)3208-1755

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ウェビナー開催のお知らせ「パンデミックにおける日系人の創造性」

ウェビナー「パンデミックにおける日系人の創造性」■COVID-19パンデミックによる世界的経済危機の中で ブラジル日系人起業家たちはどのように自分自身を再発見したか■日 時:2020年12月1日(火)19h~リンク: www.youtube.com/bunkyodigital     www.youtube.com/channel/UCJGYLgHk9EgiyGSxGjbt0IA ※ポルトガル語のみ 在聖日本国総領事館の支援を受け、NEB-Nikkey Empreendimentos do Brasil(ブラジル日系企業)と文協が上記ウェビナーを共催します。 COVID-19パンデミックにおいて、どのような問題にぶつかり、どのように向き合いそれを克服したか、9名のリーダーたちがそれぞれのストーリーを語ります。※ポルトガル語のみ 【ゲスト】 ¤ アレックス・オザイデジタルサイネージ「OzaiCom 」と消毒済み野菜販売「Yaoyá Higienizados」創業者 ¤ アレクサンドル・ミキ レストラン「La  Mar Cebicheria Peruana」のオーナー ¤ セザール・ユキオ「Hanami Confeitaria」(洋菓子店)のシェフ ¤ クリスチーナ・ミウラ歯科医、歯周病治療「PerioDiária」を発案 ¤ レアンドロ・イアモト 理学療法士 ¤ リリアン・イシダ・アライ「 HackMed」(健康革新プログラム授業)創設者 ¤  マルコス・テルヤ「Compra e Venda」グループ(ワッツザップを利用した売買システム)創設者 ¤  テルマ・シライシレストラン「藍染」オーナーシェフ、日本食普及親善大使 ¤ ワルテル・イイホシサンパウロ州商業評議会会長 【司 会】 マリオ・ナリタ  サンドラ・ハヤシダ どうぞお楽しみに!

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再オープンのお知らせ-ブラジル日本移民史料館

COVID-19の感染拡大防止の為の臨時休館につきまして、皆様には多大なるご不便・ご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げますとともに、多くの皆様からご理解を賜りましたことに深く感謝を申し上げます。この度、サンパウロ州・市当局の自粛緩和指示に従い、11月5日(木)より、感染対策を徹底した上で、段階的に再開致します。 蜜の状態を避けるため、1時間あたりの最大入館数は25人としております。よって、ご来館の際は、あらかじめ予約が必要となっておりますので、ご注意ください。 ※6月から8月に開催した「アミーゴキャンペーン」にご協力頂いた方の入館が優先となります。 ご予約方法は以下のとおり、e-mailもしくは電話、リンクから承っております。 入館ご予約 ・e-mail: museu@bunkyo.org.br ・Tel.: (11) 3209-5465 ・リンク: https://www.bunkyo.org.br/br/agendamento-online/ 入館日:木、金、土曜日 時 間:午前10時30分から午後1時30分まで   スケジュール:(最大収容人数25名)   ・10:30~11:30   ・11:30~12:30   ・12:30~13:30   ・13:30~14:30 ※予約した入館時間より早く到着した場合、文協大講堂のホールにて2メートルの間隔をとってお待ちください。 【史料館の取り組みについて】 ・開館日時:木、金、土曜日の午前10時30分から午後2時30分まで ・訪問者数は史料館総容量の最大60%に制限 ・マスク着用の義務化 ・ 社会的距離(1.5メートル)の実施 ・ アルコールジェルディスペンサーを数箇所に設置 ・ 文協ビル入り口に消毒マット設置 ・ 体温測定の義務化(37.5度以上の方はご入館いただけません) ・ 清掃の頻度を増加し環境の浄化を徹底 ・エレベーター乗員制限(最大2人/ご家族の場合最大4人) ・40分ごとに室内の空気を100%交換する空調システム ・ 飲用噴水の使用禁止 ・ 従業員に対する安全管理の徹底指導 ・ ガイドによる案内と対面式講義を一時的に中断 皆様のご来館をスタッフ一同心よりお待ちしております。

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南東軍総司令官による日本館表敬訪問

去る11月17日(火)、ブラジル陸軍南東司令部の総司令官エドゥアルド・アントニオ・フェルナンデス大将および、ブラジル南東軍の第2軍管区司令官ジョアン・チャレラ・ジュニオール陸軍中将、第2陸軍師団司令官エドソン・ディール・リポリ陸軍中将、サンパウロ軍事サークルクラブ会長ジョアン・ディニズ中将、第11歩兵旅団司令部中隊司令官エドソン・マサユキ・ヒロシ陸軍少将らが日本館を表敬訪問しました。 文協側では、石川レナト文協会長のほか、文協副会長および宮坂国人財団の理事長でもある西尾ロベルト義弘氏、会長補佐の小原彰氏、日本館運営委員会の栗田クラウジオ委員長、山室エルベルト信企画担当理事が歓迎しました。 一通り見学した後日本酒で乾杯、昼食を共にし、終始和やかな雰囲気で交流を楽しみました。 写真提供: Aldo Shiguti

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にっけい文芸賞受賞作発表!

去る2020年11月14日に開催したオンライン授賞式は以下でごらん頂けます。 文協はブラジル日系人の文学を奨励し、その普及と向上を図ることを目的として、1968年に 「にっけい文芸委員会」を設立しました。 それ以来、毎年1回、その前年度にブラジル日系人が出版した文芸作品の中から候補作品を選出、選考委員によって選んだ優秀作品に賞を贈る活動を行って参りました。 時代の要求に応じて、1995年にはポルトガル語部門を、2009年にはまんが部門を新たに加わえ、活動の幅を広げております。 ※1972年と78年は該当作品が無く開催されなかったため、本年が第50回目のにっけい文芸賞となっております。 本年はCOVID-19パンデミックのため、授賞式はオンラインにて開催いたしました。 日本語部門授賞作 【にっけい文芸賞】忘れがたみの記 梅崎嘉明著【 功 労 賞 】楽書倶楽部第51号 楽書倶楽部【 特 別 賞 】絆 皇室とブラジル 二宮正人・二宮ソニア著 ポルトガル語部授賞作 1等 :  “Domanda Nísio”, de Emir Rossoni 2等 :  “Guatambu”, de Luiz Carlos Ladeia 3等 :  “O Anjo da Penha”, de Marcos Pereira de Mello まんが部門授賞作 1等 :  Roberta Dias Carlos com obra “Sabugo”2等 :  Iberê Guimarães com obra “Encontro na Ponte Yakusoku” おめでとうございます!

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オンライン講座「日本の歴史」全20回

この歴史講座はブラジル漫画家協会とブラジル三重県人文化援護協会が2017年から共催しており 「 縄文、弥生時代から 現在に至るまでポルトガル語で日本の歴史が学べる」と毎回好評を博しています。 昨年2020年はCOCID-19の影響を受けオンラインによる講座に変更、本年も引き続きオンラインにて開催します。なお、講座は全20回(有料)です。 第1回オンライン講座「日本の歴史」  日 時:2021年2月21日(日)9時~10時半  プラットフォーム:zoom  言 語:ポルトガル語  受講料:1回につき 27.50レアル      (受講料25レアル + システム使用料2.50レアル) 受講申し込み / お問い合わせ:ここをクリック 

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ライブ配信「ブラジルの祭り」2月10日(水)20時~

ライブ配信 ブラジルの祭り:テーマ「人々を繋ぐハーモニー」日 時:2021年2月10日(水) 20時~リンク: https://www.facebook.com/festivalbunkamatsuri/     ※ポルトガル語のみ ブラジルでは「祭り」が熱い! 「七夕祭り」「文化祭り」「桜祭り」 「盆踊り」 「秋祭り」「いちご祭り」。。。など、ブラジルでは今、各地の日系人が様々な「祭り」を開催しています。 年々規模も拡大し、各地の政府当局による「観光カレンダー」に掲載されるまでに成長した「祭り」も枚挙にいとまがありません。 今回は、その中「祭り」の中から6つの祭りとその代表者が集います。どうぞお楽しみに! 「JUNGLE Matsuri」 : トミオカ・エリカ(マナウス)「Festival Cultural Japonesa de Salvador」 : ミズシマ・ロベルト(サルバドール)「FESTIVAL DO JAPÃO 日本祭り」:キャロル・アヤコ(ポルト・アレグレ)「盆踊り BONODORI」 : マスダ・レオナルド(ゴイアス)「AKIMATSURI 秋祭り」 : アオヤギ・ダニエル(モジ・ダス・クルーゼス市 SP) 「BUNKA MATSURI」:カトウ・タカユキ ( サンパウロ )  

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訃報 本山省三氏 

サンパウロ州立総合大学(USP)教授で、科学史センター理事、ブラジル日本移民史料館館長、サンパウロ人文科学研究所理事長を務めた本山省三氏(二世)が、1月26日(火)午後8時50分頃、自宅でお亡くなりになられました。81歳でした。1月5日に81歳の誕生日を迎えたばかりでした。 夕方になっても、昼寝から起きてこないのを心配し、家族が部屋に様子を見に行ったところ、意識の無い状態で発見されました。救急車で緊急搬送されましたが病院で死亡が確認されました。死因は不明です。 葬儀は翌日27日に執り行われ、ゲッセマニ・アニャングエラ墓地に埋葬されました。 本山・ミズノ・ジュリア夫人との間に2人のご子息(ショウイチさん、シンジさん)そして、3人のお孫さんに恵まれました。 飽くなき探究心 本山氏はサンパウロ大学(USP)にて物理学を専攻(1967年卒業)、1971年には同大学の科学博士号を取得しています。日本の早稲田大学理工学研究室博士研究員(招待研究員)でもありました。1975年には東京大学の宇宙線研究室に在籍しています。1976年にはサンパウロに戻りUSPで無料指導を行っていました。また本山氏は、USPの哲学・文学・人間科学部の歴史学部の教授(1999/2009)として教鞭をとり、ユニット間科学史センターの所長も努めました。 1966年からサンパウロ人文科学研究所(人文研)の理事を務め、2004年から2019年まで会長の職を担いました。それ以外にも ブラジルの日本移民史料館の館長(1991/1997および2008/2009)およびアカデミアパウリスタデヒストリアの議長15番のメンバーでもありました。 執筆活動 今までに、科学技術史をテーマにした32冊以上の本を執筆し、2011年は、第二次世界大戦の到来までの日本の移民の歴史について執筆した「日の出の象徴の下で(Sob o Signo do Sol Levante)」を出版しました。 その後、2016年にジャーナリストのホルヘ・オクバロとともに、1941年から2008年までの日本の移民の歴史を取り上げた「戦中戦後編『対立から統合へ』(Do Conflito à Integração – Uma História da Imigração Japonesa no Brasil)」も出版しています。これらは、ポルトガル語版のブラジル日本移民『百年史』全5巻中3巻目です。 現在は、USPおよびブラジル日本移民史料館で主任研究員を務め、日本移民文化研究センターに参加し、史料館の9階に設置される展示会のキュレーターコーディネーターを務めていました。 本山省三氏のブラジル日系社会に対する数々の貢献に感謝申し上げ、心からご冥福をお祈り致します。

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追悼 石井賢治氏

去る1月17日、澄んだ青空が広がった日曜日の朝8時58分、石井賢治氏は2か月間の癌との闘いに終止符を打ち、イスラエリタ・アウベルト・アインシュタイン病院(SP)にて息を引き取られました。88歳でした。翌日、家族葬によってゲツマニ墓地(SP)に埋葬されました。 奥様のミネコさんとの間に、息子のロベルトさん、フェルナンドさん、娘のイザベルさんを授かり、7人の孫にも恵まれました。 石井賢治氏とブラジルをつないだ「陸上」 日本の長野県に農家の末息子として生を受けた石井賢治氏は、慶應義塾大学時代、エリート陸上競技チーム(5千メートルと1万メートルの選手)に所属し、日本の全国陸上競技大会で2度も優勝するなど、将来を期待された選手でした。 アスリート達がフィンランドのヘルシンキで開催される1952年のオリンピックに向けての準備に専念するなか、陸上では、様々な国から名だたる選手が参加することで世界的に有名となった「サンシルベストル国際レース」に、1951年の大晦日、多くの国から選手が送り込まれました。 ブラジルの反対側である日本からは、オリンピック出場候補選手として慶應義塾大学が負担した費用のもと、石井賢治氏と高橋進氏が送り込まれました。 石井氏は既に多くのレースに参加し、ボストンマラソンを含む国際的なレースでのメダルを獲得していましたが、日本人として初参加となったこのレースにて、8位入賞という快挙を成し遂げました。 そしてこのレースに参加するために来伯したことがきっかけとなり、当時日本より豊かで無限の可能性に満ちたブラジルにすっかり魅了され移住を決意、大学を卒業するとすぐ移民船「さんとす丸」に乗りブラジルへと移住しました。 ブラジルでの第2の人生の始まり 石井氏はまず、サンパウロ内部の穀物販売店で働きました。続けてマウアー農業共同組合、リオデジャネイロのヤマガタエンジン建設会社で働く中、南米銀行の創設者でありラテンアメリカにおける日本人移民の中で大きな力を持っていた宮坂国人氏に出会いました。 その宮坂国人氏に勧められ宝石販売業に従事することとなり、1967年に独立し「ジョイアロレーナ石井宝石店」が誕生しました。 ちなみにこの宝石店は、石井氏の3人の子供が後継者になることに興味を示さなかったため、2017年に閉店、50年という歴史に幕を閉じました。 石井氏とブラジル日系社会の関わり 石井氏が文協に入会したのは1959年10月2日のことでした。1987年からは審議委員会の委員を務めるなど、常に協力を惜しみませんでした。それ以外にも、在伯長野県人会およびと慶應義塾大学三田会の会長も務めました。 また「ブラジル法の会」の会員であり、慶應義塾大学ロースクールとの関係に大きく貢献しました。 そして、1960年代半ば以降、ブラジル日系社会において発行される全ての出版物には、「JóiasLorena」のバイリンガル広告が掲載されていたと言っても過言ではありません。そしてこれは石井氏自身の宝石店のマーケティング戦略というよりも、ブラジル日系社会の活動に対する支援が動機となっていることは誰の目から見ても明らかでした。 石井氏と小渕恵三元首相との友情 現在、お二人の友情物語はブラジル日系社会において有名な話ですが、それが公になったのは、1997年のことでした。当時外務大臣だった小渕氏が、東京で開催された石井賢治氏の長男ロベルト氏の結婚式に出席されたのです。ロベルト氏は「父との約束を小渕氏が守ってくださったのです。」と話しました。同じく結婚式に出席していた石井氏の長年の友人であるサンフェルナンドゴルフクラブ創設者であるフリオ・クルス・リマ氏は「二人の間に築かれた友情の物語を交えた祝辞は、そこにいた全員の胸を打った。」と話しました。 そんなお二人の出会いは、1960年代のはじめにさかのぼります。 かばんひとつでぶらりとブラジルへやってきた、当時早稲田大学院生、小渕恵三氏。政治家を志していた若い小渕氏は、世界情勢を実際に肌で感じる必要があると、熱い想いを胸に秘めつつアメリカなど36カ国を訪れ、ブラジルにも足を伸ばしました。ここでは早稲田大学の先輩方に宿を借りながら、約2ヵ月間に亘り日本移住地を見て回りました。そこで思いがけず触れた多くの日本人移民の暖かさに、すっかり心を奪われたとのことです。その「暖かな日本人移民」の一人が石井氏でした。当時、慶應義塾大学の同窓会「三田会」の会長であった石井氏は、日本から来伯するアスリートや若者達の宿や食事などの面倒を快くみることで有名でした。 そんなある日、突然、小渕青年のもとに日本の母親から「内閣総辞職。すぐに帰って、立候補せよ。」という電報が届きました。 帰国前に食事を共にした石井氏に小渕氏は「偉大な政治家になってまたここに必ず訪れる!」と宣言し、ブラジルを後にしたそうです。 帰国後、小渕氏は父親の地盤を引き継ぎ、26歳で衆議院に当選し4年後に議員として来伯。見事に石井氏との約束を果たしました。 またそれだけでなく1998年のブラジル日本移民90年際には、今度は外務大臣として来伯し記念式典に出席されました。 後に、小渕恵三氏の娘である優子議員は当時の様子を「強行なスケジュールで外務省の誰もが反対したんですが、俺がいくと言って出たんです。」と、話しています。 石井氏とスポーツ また息子のロベルト氏は、「父親は常に、バレーボール、ゴルフ、陸上競技など、さまざまな分野のスポーツマンに支援し続けていた。」と述べています。 「父は故松平康隆氏※と同級生で、松平氏を通して日本とブラジルの交流を強化しようと一生懸命でした。『エスコラ・ブラジレイラ』という学校を設立し、その結果わが国でバレーボールのチャンピオンが生まれました。」と付け加えました。 ※松平康隆氏(22/01/1930~31/12/2011)とは、日本のバレーボール全日本選手で、後にバレーボール全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉顧問、アジアバレーボール連盟終身名誉会長、国際バレーボール連盟名誉副会長、日本オリンピック委員会名誉委員を歴任した人物 シンプルで正しい人 「石井さんは、サンフェルナンドゴルフクラブのメンバーのために常に率先して協力してくださいました」と同クラブ創立者のフリオ・クルス・リマは、いつも意見を交換していた石井氏について、感謝の言葉を述べました。 「何十年もの間、石井氏は青年たちの宿泊、食事の世話はもちろん、良きアドバイザーとして存在していました。 私たちの倶楽部の青年のためのボール、ティー、キャディが不足することは決してありませんでした。そして石井氏は、誰も知らないうちにそれをするのです。」と話しました。 「これは、常に他人を助けることに関心を持っていた、素朴で正しい人である石井さんのありのままの姿です。 彼は植民地で卓越した尊敬と称賛を勝ち取り、その後数十年でここに到着したすべての移民は、自分達が事業を始める前や、または自分達の家族をブラジルに連れてくる時など、人生の一番大事な事柄は、石井さんに相談しに行きました。」と述べました。 このように、石井氏の人生は常に他者を思いやる大変面倒見のよいスポーツマンだったといえます。 日伯交流への多大なる貢献およびブラジル日系人社会に対する深い愛情に心より感謝するとともに、石井賢治氏のご冥福をお祈り致します。

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訃報 岡野修平氏

ブラジル講道館柔道有段者会名誉会長の岡野修平氏が1月16日の午前5時頃、ご自宅で逝去されました。82歳でした。同日、家族と近親者により葬儀が執り行われ、レデントル墓地(SP)に埋葬されました。 岡野氏は昨年末から2週間ほど呼吸器疾患により入院、年明けからは自宅にて療養中でした。 岡野氏と柔道 1938年1月20日、北海道に生を受けた岡野氏は、10歳で柔道を始め、以来柔道一筋の人生だったといえます。 東京の中央大学法学部に在籍中に、同大学柔道部の副主将を務め、卒業後の1964年には世界の強豪が揃った国際親善大会で準優勝を果たしました。 ブラジル柔道への貢献 岡野氏が、サドキン電球工業の創業者で後にニッポン・カントリークラブの初代会長となる山本勝造氏に呼び寄せられブラジルへ来たのは1966年、当時28歳の時でした。 サドキン電球工業で働きながら、翌年にはブラジル柔道の代表チームの監督に任命されました。 72年のミュンヘンオリンピック大会では石井千秋選手の初のメダル(銅)獲得に導くなど、ブラジル柔道史に名監督としての名前を残しました。 柔道を通して日伯交流にも貢献 ブラジル講道館柔道有段者会の役員や会長を歴任するなど指導者として活躍するだけでなく、柔道を通して日伯の交流にも尽力されました。その大きな貢献が日本政府に認められ、令和元年(2019年)春の叙勲において旭日単光章を受勲しました。 なお、2009年には、通常は80歳以上が対象となる国内最高位「柔道9段」に当時72歳で昇段しています。岡野氏がブラジル柔道会に対して成した貢献があまりにも偉大であるというのがその理由です。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。

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文協創立会員インタビュー 瀬川正文氏 水野昌之氏

瀬川正文氏(99歳) 「コロニアの代表機関として1955年、文協が設立されました。」瀬川正文氏は、2020年6月に発刊した「文協ニュースコロニア 第143号」の企画「文協創立会員インタビュー」の中でそう話しています。 当時、サンパウロ在住で、南米銀行に勤務していた瀬川氏は「文協の設立は、誠に時機にあった大変良い企画であると考え、創立会員募集に応じました。」と話しました。 そして「1993年には正監査役、1995年には正評議員を務めました。」と付け加えました。 非常に明敏で勤勉な人 瀬川氏は、同じ創立会員であり青春時代を共にバストス市で過ごした水野昌之氏の言葉を借りれば「非常に知的な人」として知られています。 1970年代、当時勤めていた南米銀行において、管理職に就くための資質を持つ優秀な従業員である「ゴールデンボーイ」の一人として認識されていた瀬川氏は、実際にその期待通り、最終的に南米投資銀行の取締役まで上り詰めました。 現在、文協の副会長で当時南米銀行の法務部門を担当していた西尾ロベルト義弘氏が「瀬川氏は銀行内で非常に明敏で博識な方だと称賛されていました。彼のポルトガル語も驚くほど流暢で、若者との交流にも長けていました。」と話すのを聞くと、博識を持ちつつ、人の心を掴む術も体得されていた方だというが窺い知れます。 まずはニューヨークへ そんな瀬川氏が18歳の時、故郷長野県を後にし、まず向かったのがアメリカニューヨークでした。そこで日本の銀行の支店に勤務していましたが、1940年に日本軍による真珠湾攻撃のうわさを耳にし、1941年に21歳でブラジルへ飛伯したそうです。 ブラジルでの日々 ブラジルではサンパウロ州バストス市のブラジル拓殖組合(ブラ拓)に就職しました。文協創設時の1955年には、同じブラ拓グループの南米銀行職員となり、サンパウロ市営市場内にある支店勤務を経て、マネージャーから南米投資銀行の取締役に昇格するなど、1980年代後半に引退するまで銀行員としての華麗なるキャリアを重ねました。 根っからの数字好き 瀬川氏は根っからの数字好きで、99歳となった現在も、毎日、新聞の株価の動向をチェックすることに余念がないそうです。彼はご自身を「保守的な投資家」と考えており、毎日欠かさず読んでいるESTADÃO新聞を通じて、そして時にはインターネットを駆使しサイトのVALOR ECONÔMICOを通して株価の値動きに対する情報をチェックしているとのこと。 瀬川氏の息子であるサンパウロ大学建築都市計画学部(FAU)瀬川ウーゴ教授は、「父は92歳まで、6〜7年前まで、車を運転していました。」と話しました。そして「文協が毎年開催している新年会に行くときも、自分で運転して行っていたんですよ。そして父は、知り合いがいなくなった時、ついに運転するのをやめました。」と付け加えました。 また、瀬川氏は最近、南米銀行の元従業員らで組織されている「なぎさ会」の年次総会に招待されたそうです。 ウーゴ氏は「父と、そして同行した息子の自分にまで大変温かい歓迎をして頂き、父も私も、大変嬉しかった。」と話し「その会には南米銀行の元従業員だけでなく、他の日系企業で働いていた方々も来ていて、父は古くからの友人たちとの再会を、心から楽しんでいるようでした。」と思い返しました。 続けて ウーゴ氏は 「父は外国貿易や外国為替部門で働くその道の専門家だったため、多くの人が父の見解を聞きたがり『まるで先生と生徒のようだった。瀬川さんのお陰で私たちはやってこれたし、瀬川さんから本当に多くの事を学びました。』と父に感謝を伝える方々が沢山いらっしゃいました。」と、改めて父親の偉大さを垣間見た息子として、感慨深げに語りました。 ちなみに、瀬川氏は文協の最も重要な行事の一つである99歳の方を祝賀する「白寿者表彰」2020年度の対象者27名の内のお一人でもありました! 水野昌之氏(94歳) 水野昌之氏(94歳/愛知県名古屋市出身)がブラジルにやってきたのは、8歳の時でした。家族はノロエステ線沿いのバルパライゾ地区の、綿花栽培の仕事に就きました。家族が少なかったため、8歳の少年でも立派な働き手の一人です。鋤の柄を握る幼い手には常にまめが絶えませんでした。 「だから小学校には最初の一年間、通っただけ。」と水野氏は話します。 しかし後に邦字新聞のパウリスタ新聞社が行った記者募集において、応募総数37名の中から見事、水野氏ともう一人が採用されたことをみると、相当な努力をして日本語の勉強をしたに違いありません。 それに対し水野氏は「第2次世界大戦というのは日本が勝つと思って、日本語ばっかり勉強してたからね。日本に帰ろうと思ってね。早稲田の中学校教本があって、それを全部写して。それで非常に、日本語に自信があった。」と胸を張りました。 しかし、日本の敗戦とともに日本へ帰国するという夢も破れ、人生の方向転換を余儀なくされた水野氏は、親元を離れ職を求めてサンパウロの大都市へと向かいました。 邦字新聞記者時代 ただ、ポルトガル語をよく理解できない水野氏にとって、サンパウロで職を得ることは想像以上に困難でした。 そんな中、創立間もないパウリスタ新聞社が日本人記者を募集している話を聞きつけ、運よく採用されたというわけです。ちなみにこのパウリスタ新聞社は1947年1月に創立され、日本が戦争で敗北したという立場を擁護することで知られていました。 水野氏は入社当時を振り返り「私はね、23歳でパウリスタ新聞社に入った時ね、編集に入ったんですけど、最初に入ったときに一番最初に『これしまっとけ』と渡されたのがピストルなんですよ。これ引き出しに、一番出しやすいとこに置いとけと。それは、まあ、敗戦、負け組みの新聞でしょう。いつ特攻隊が来るか分からないから護身用にね。一番最初に渡されたのがね、ペンよりも先にピストルだった。いやこれはおそろしいなと思ったね。」と話しました。 そして入社から約1年後には、新聞の三面記事である社会部記者になりました。 益々やる気もみなぎり、邦字新聞の未来を真剣に考えるようになった頃、内部で起こった紛争に嫌気がさし水野氏はパウリスタ新聞を退社、仲間とともに日伯毎日新聞社を設立しました。そしてここでも三面記事の社会部を担当しました。 「バストス二十五年史」の執筆 後に水野氏は、友人のブラジル拓殖組合のディレクターだったサキタハルイチ氏より引き抜かれ、後に日本移民史にとって非常に重要な歴史本となった「バストス二十五年史」という本を執筆、出版しました。 この出版物のために、水野氏はサンパウロ日本商工会議所の職員となり、定期的な出版の責任者になりました。 また商工会議所は水野氏を、1957年経済年鑑の発行のために日本に派遣し、日本企業によるブラジルへの投資を奨励しました。 アチバイア市へ ブラジルに帰国した際、他の人々に使われることに疲れた水野氏は、自分で事業を始める決心をし、アチバイア郊外に農場を購入ました。そこで5万羽の養鶏と2500頭の豚の飼育を始めました。 数年後、彼はこの事業を辞め、投資家へ転身。地域社会に奉仕することを目的に、アチバイア文協50周年記念誌の研究、執筆、編集に携わりました。 今までに、武本文学賞を6回受賞し、3つの異なるカテゴリー(散文、俳句、短歌)で2回優勝した唯一の人物である水野氏の、現在の最大の楽しみは、文学と読書だそうです。

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